ゑり華の歴史
こんにちは。
青山 ゑり華の花岡 隆三です。
HPをご覧頂き誠にありがとうございます。
ゑり華は父、花岡愼一が祖父虎三より独立しゑり華を創業して四十三年。
青山店オープンして三十七年を迎えました。
金沢のゑり華は、会長・花岡慎一が昭和四十八年の十一月十日にオープンさせました。その当時は祖父のお店「ゑり虎」と同じ店名を活かして「ゑり虎イメージ店」という店名で、金沢で初の加賀友禅専門店として華々しくオープンいたしました。
青山店は五十四年にオープン。原宿のマンションの一室に事務所を借りてから五年目のことでした。
ゑり華創業の歴史は、地元金沢呉服市場での加賀友禅の認知度を高めることに他なりませんでした。当時の金沢は京都が一番で加賀は番外。全ての着物屋さんが高級京友禅の看板を掲げていましたし、金沢市民も同様な感覚で、オープン当時加賀友禅は、金沢でまったく売れずその結果としての東京進出でした。
それでは創業の百十六年前からの歴史を辿ります。
ゑり華の歴史は花屋から
ゑり華の歴史は曾祖父花岡虎次郎の時から始まりました。
明治三十三年現在の竪町店がある場所で生花店「花岡花屋」を開店しました。
虎次郎は生け花の才があり、池坊の北陸総華督を勤めておりました。
昭和天皇が皇太子時代に成巽閣へ行啓になられた際、一切の生け花を担当するという光栄に浴しました。
花屋から和装小物のお店に
二代目の虎三は商才に長けた人でした。当時まだ珍しいカーネーションなどの洋花を東京から仕入れてとても繁盛していたようです。
しかし花屋は、朝早くから冬の厳しい寒さの中でも冷たい水を使うとても厳しい仕事。
祖母をつらい作業から解放してあげてあげたいと思ったのと、時代的にも片町がこの後発展すると予測し、昭和十三年和装小物を扱うお店「ゑり虎」を片町にオープンさせました。
祖父虎三は昭和二十四年に銀座にもお店を出しました。
色々な事情により手放すことになりましたが、今も持っていたらどうなっていたのでしょう。
ゑり虎からゑり華へ
三代目の父愼一は大阪の大学を卒業後、東京日本橋の「白木屋」に入社。本人は不服だったそうですが、呉服部に配属されます。
その白木屋で十二年の勤務の後、祖父の要請を受けて金沢に戻り専務としてゑり虎の陣頭指揮を執ります。
その傍ら、古布の収集と加賀友禅の研究を開始します。
そして研究の成果として「加賀のお国染め」三部作を出版、染織研究家としての名を高めました。
加賀友禅に惚れ込み、ついには加賀友禅の専門店を作ることを決意。元々花岡花屋のあった創業の地竪町に場所に、「伝統を生かすゑり虎イメージ店」をオープンさせました。
昭和五十八年にはゑり虎さんとの混乱を防ぐ意味もあって店名を、一般公募と父の想いとピッタリあった「ゑり崋」に変更いたしました。
東京進出は四十九年の事でした。金沢に加賀友禅の専門店を立ち上げましたが、地元で加賀友禅は売れなかったのです。
そこで父は原宿のマンションを借りて東京の拠点とし、そこからコツコツとお客様を増やしていったのです。
そしてついに五十四年南青山三丁目に店舗をオープンし、記念のパーティをダイヤモンドホールにて開きました。当時大学生だった私達兄弟も呼ばれて私はカメラ係を仰せつかりました。
昭和58年には美しいキモノ秋号に加賀友禅特集が組まれ、加賀友禅専門店として大きく取り上げられました。
金沢の呉服屋さんも、この頃からどんどん京友禅の看板を加賀友禅に掛け替えたようです。
青山ゑり華へ
私が東京の問屋さんで修業を終え、金沢の研修を経た後青山店に配属されたのが昭和六十三年の一月でした。
その後、営業・店長・部長・専務と職務をこなして、平成十二年八月、青山店を「加賀友禅&お洒落 青山ゑり華」として父愼一会長、兄央至社長の許しを得て独立分社いたしました。
地上げ等の影響で二回の移転を余儀なくされましたが、その度に多くの人に支えられて現在も元気に営業いたしております。
どうぞ、お気軽にお立ち寄りください。